「そば切り」の字が最初に登場するのは、従来江戸初期とされていた。
近江多賀神社の社僧、慈性が書いた日記の中の慶長十九年(1614)二月三日の条に「常明寺へ、薬樹・東光ニモマチノ風呂へ入ラントノ事ニテ行候ヘ共、人多ク候テモドリ候。ソバキリ振舞被申候」とある。慈性はこの年、江戸城で行われた天台宗の論議聴聞に近江から出席していた。薬樹(院?寺?)・東光(院?・寺?)の仲間と常明寺へ行き、町の風呂へ出かけたが、人が多く、入らずに戻ってきた。常明寺でそば切りをご馳走になった。そうした意味だろう。
徳川家康が江戸幕府を開いたのは、慶長八年(1603)である。その年、諸大名が普請役となり、下町の建設が始まっている。それから11年後に江戸にすでにそば切りが入っていたのだ。
しかし、江戸の人たちは、そば切りが江戸時代より前にあったとは考えなかった。享保十九年(1734)に出された「本朝世事談綺」は「中古200年以前の書、もろもろの食物を詳かに記せるにも、そば切りの事見えず。ここを以って見れば近世起こること也」と書いている。
ところが平成四年になって、慈性日記より40年前に「そば切り」の字があったことが、信州で発見された。長野市の郷土史家関保男さんが、「信濃史料」に収められている「定勝寺文書」の中で見つけたものだ。定勝寺は、木曽郡大桑村の臨済宗妙心寺派の寺で。永享二年(1403)の創建と伝えられる。
同寺では、天正二年(1574)に仏殿の修理を行った。その時の「番匠作事日記」の三月十六日の条に、落成祝いに寄進された品物が書いてあり、中に「徳利一ツ、ツハフクロ一ツ 千淡内」、「振舞ソハキリ 金永」と書かれていた。「ソハフクロ」はそば粉の袋とされる。そば粉が贈答用に使われたことはこれ以前の京都の公家日記にもしばしば出てくる。
「慈性日記」に出てくる常明寺、この定勝寺と、そば切りの初見が寺であることは、興味深い。「そば切りは禅林から始まった」とする伊藤汎さんの説を思い浮かべる。ただ私は、逆の事も考えられると思う。寺は地方の人たちの集合場所である。葬式、法要のほか、何かと村の会合の場所に使われた。その寄り合いの際、村の人たちが自家製のご馳走を持ち寄ることもあったのではないか。定勝寺の場合は「金永」という人がそば切りを寄進している。千淡内(千村淡路)が寄進した「そば粉」で、寺ではそばを打ったかもしれないが、「金永」は自分で作ったそば切りを持参したのである。
むしろ、日本最古のそば切りの文書が木曽にあったことが、重要な意味を持っている。ソバ粉食品を工夫してきた農民(ソバ栽培農家)の中から自然発生したのではないだろうか。その伝播ルートの一つに、本寺と末寺の僧侶の移動があったかもしれない。
なお「定勝寺文書」には、応永二十九年(1422)の年貢納下帳に「索麺」が出てくる。この地方が古くから麺作りと縁があったことを示している。
昔の定勝寺は木曽川近くにあり、大水で三回流失した。現在の建物は、慶長三年(1597)に木曽代官の石川備前守光吉が木曽義在の館跡へ再興したものという。「そば切り」初見当時の仏殿はないことになる。
そば切りの発祥について、もう一つ書いておくことがある。嘉永二年(1849)刊行の「二千年袖鑒」という本に「天正十二年(1584)に大阪に「砂場津国屋」というそば屋が開店した」ということが書いてあるそうだ。「慈性日記」より三十年古い。是に対し、二百六十五年後の記述を信用できないとする見方が一般的だが、これが本当としても、「定勝寺文書」より新しい。ただ、天正十二年といえば、二年前に織田信長が本能寺で死に、豊臣秀吉が天下統一のため各地で戦争をしている最中である。その時代にそば屋の営業が成立したかは、疑問が残る。
|