そば切りはどこで生まれたか。従来二つの説があった。一つは信州説で、文献的には一番古い。正保二年(1645)に刊行された俳書「毛吹草」に「そば切りは信濃国の名物。当国より始まる」とある。正保二年は、江戸でそば切りが普及しだして間もなくのころで、無視できない言い伝えである。
このほか、松尾芭蕉十哲の一人、森下許六が宝永三年(1706)に「本朝文選」(再版の時「風俗文選」と改題)という本を出版した。芭蕉や蕉門の俳人の文章を集めたもので、その中で許六の弟子の雲鈴が次のように書いている。「蕎麦切りといっぱ(いうものは)、もと信濃ノ国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」。本山宿は中山道の宿場で、現在は塩尻市に属する。松本方面から国道19号線を行って、右に旧道を入ると、昔を偲ばせる静かな街並みがある。「そば切り発祥の地」の碑がある。
そば切りは、実際には「本朝文選」より百数十年以上前に誕生しており、同じ信州でも土地を特定した本山発祥説がどれほど信憑性があるか疑問だ。ただ、そば切りの発祥と木曽とは関係があり、木曽の続きである中山道本山宿の名が出てくることは偶然とは言えない。
もう一つは甲州発祥説である。尾張藩士天野信景が書いた雑録「塩尻」(宝永年間=1704-11)に「蕎麦切りは甲州よりはじまる。初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食(めし)を売に米麦の少なかりし故、そばをねりて旅籠とせしに、その後うどむを学びて今のそば切りとはなりしと信濃人のかたりし」と書いてある。「信濃人のかたりし」というくだりは、曰くありげだ。
麺食研究家の伊藤汎さんは、14世紀から15世紀初頭にはそば切りが誕生したとし、京都の禅林発祥説をとっている。
永享十年(1438)の「蔭涼院日録」に「松茸折一合、蕎麦折一合、賜林光院」の記述があり、これはその四十五日後の同日録の「自玉泉和坊、麺蕨大折二合」の記述と同じだとする。「麺蕨」はワラビ粉の麺。「蕎麦折」は蕎麦麺と伊藤さんは考える。さらに、室町時代の文章にでてくるほかのそば食品には、名前が書いてあるのに、「蕎麦」とだけあるのは「麺」のことと推定する。そして、ひやむぎ、うどんなど独自の麺文化を形成してきた禅林でそば切りが発明され、末寺への僧侶の移動によって各地へ普及していったというのである。
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